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トピックス解説(2)

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2001年5月26日

大容量通信の新しい原理として期待される超加法的量子符号化利得を世界で初めて実証

背景

現在のパソコンやインターネットの中を駆け巡っている情報の実体は、0と1という抽象的記号を運ぶ電気や光の膨大なパルス列です。音声や画像を0と1という抽象的記号で表現することで、効率的なデータの圧縮や雑音下での信頼性の確保が可能になります。いわゆる符号化といわれる操作ですが、それは大きく分けると、データを{0,1}のビット列で圧縮して表現するための情報源符号化と、そのビット列をできるだけ小さい誤りで伝送するための通信路符号化の2つに大別されます。今後、チップの小型化や光回線の大容量化がさらに進むと、0と1を運ぶ搬送媒体が光子や電子のレベルに到達し、量子力学が支配する世界で情報操作を行う領域に突入してゆきます。CRLでは、通信を成り立たせるための2つの基本的符号化操作、情報源符号化と通信路符号化を、量子力学的領域へ適用してゆく研究に取り組んでいます。量子情報理論(注1)と呼ばれる最新の理論によると、粒子間の量子力学的な相関いわゆる量子もつれ(注2)を適切に制御する事で、従来の理論限界より効率の良い圧縮操作や大きな通信路容量(注3)の確保が可能になります。今回の成果は、より大きな通信路容量を達成するための通信路符号化に関して、これまで理論的予言に止まっていた量子力学的符号化利得を世界で初めて実証したものです。

本研究成果の概要

量子力学の不確定性原理によると、装置の雑音をどんなに完全に取り除く事ができたとしても、情報を運ぶ媒体自身が不可避な不確定性を持っています。この事実が通信に最終的な性能限界を課すことになります。我々はこのような不確定性原理が支配する極限的状況を実現するために、完全に光を遮断した空間に光子を一個一個導いて、符号化を行う光回路を作りました。符号化は、光子の偏光面を120度の等間隔離れた角度で変調し、0,1,2の3値で行います。このような3値の光子信号には、量子力学的不確定さが伴うため、光子が運んで来た信号が0,1,2のどれだったかを完全に識別することは、原理的に不可能になります。これを不確定性原理が支配する通信路のモデルとして使います。このような信号を1本の光路を通して伝送する場合と、2本の光路を通して送る場合とを比べたとき、伝送される情報量が2倍以上に増える事を実証しました。1本の光路で伝送する場合、送れる情報量は0.6454ビットになります。2本の光路で送る場合、量子力学を考慮しない従来の情報理論では、伝送される情報量は、2倍の1.2908ビット以上に増える事は決してありえません。これに対して、情報を復号する際に光子の偏光状態と、どの光路を通っているかという空間的状態との間に量子もつれと呼ばれる量子力学的相関を形成しながら復号を行うことで、2倍以上の1.312ビットの情報が取り出されることを確認しました。光子の持つ変数の間で量子もつれを形成するということは、量子計算を行っていることに相当します。これによって、不確定性原理が支配する通信路では、量子計算を適切に用いた復号を行うことで、通信帯域の増加とともに取り出せる情報量を超加法的に増やせることが実証されたことになります。

意義

本研究成果は、量子力学と情報科学を結びつける上で、重要な基礎科学的意義を持っています。量子力学においては、古典力学にはない新しい現象として、量子もつれという相関の重要性がその誕生当時の20世紀初頭からすでに認識されていました。一方、情報科学は、20世紀半ばにシャノンが通信路容量という概念を導入して、通信理論を定式化することによって急速に発展しました。超加法的量子符号化利得は、この量子もつれ現象と通信路容量を結びつけることで初めて生まれる概念です。この効果を実験的に検証するということは、20世紀に誕生した2つの基礎科学、量子力学と情報科学を融合してゆく上で、避けては通れない通過点になります。我々の成果によって、量子もつれに対する新しい情報理論的意義が実験的に裏付けられ、同時に、通信路容量の量子力学的拡張の実験的基礎も与えられたことになります。

一方、実用的には、情報需要の爆発的増加の中で、近い将来明確な性能限界に突き当たる従来の光通信技術にかわって、新しい通信の原理を示す成果として期待されます。技術形態としては、信号を復号する際に量子計算の原理を使うもので、その核心的部分は受信側にあり、送信側では従来の光通信技術をそのまま生かす形態になります。その際、受信側で使う量子計算は少数のビットを扱う小規模のものでも、十分な技術的意義を持ちます。つまり、従来の復号回路の中に小規模量子計算回路を組み込むことで、従来の通信性能を確実に改善してゆくことが可能です。これは、超高速計算技術として期待される量子計算が、本来、大きな規模で動作させて初めてその威力を発揮できるのとは対照的で、量子計算の通信における新しい応用を示すものでもあります。この意味で、我々の成果は、従来の光通信技術から最も自然な形で量子情報通信技術へ移行してゆく通過点に位置しているわけです。

今後の展開

今回の我々の実験では、光子の偏光と空間自由度を変調して信号を伝送しています。これは原理実証としては十分ですが、実際の伝送路では外乱に弱いため、実用的にはあまり適していません。実際の通信に適した方式は、多くの光子が一つの波として束になったコヒーレント光と呼ばれる状態を変調する方式です。したがって、超加法的量子符号化利得も、いずれはコヒーレント光信号に対して実現する必要があります。しかし、残念ながらコヒーレント光信号の間で量子計算を実行するのは、極めて難しい課題であり、多くの基盤技術が熟して初めて現実になる目標です。実用化にはまだまだ多くの基礎研究が必要なわけです。我々が最初の原理実証として、光子の偏光と空間自由度を用いた理由は、これが現在の技術を使って最も正確な量子計算を実行できる唯一の物理系だからです。

今後は、コヒーレント光信号の間で量子計算を実行するための基礎研究に着手してゆきます。微弱なコヒーレント光信号での量子計算が可能になれば、1ビット当たり平均1個に満たない光子のエネルギーでも、信頼性の高い情報伝送を実現することが倫理的に可能です。具体的には、2つの方向から研究に取り組んでゆく計画です。一つの方向は、高精度の光子検出器と低雑音光源と高速の電子制御技術を組み合わせて量子計算を実行する方法です。この方法では処理速度はある程度犠牲になりますが、5年程度で現在の技術を凌駕する最初の基本モデルを実現できると期待されます。もう一つの方向は、集積化が可能な固体化素子で光の量子計算を実現する方向です。まずは、微弱な光信号に対しても大きな非線形効果を引き起こせる物理機構を探索してゆく必要があります。
我々は今やっと、量子情報通信の未踏の研究の入り口に立ったに過ぎないわけです。マラソンに例えれば、やっとトラックを出たばかりの地点にいます。これからの長い研究の道のりで、通信技術にとどまらず基礎研究の観点からもいろいろ新しい現象を探り当てられる可能性があります。

用語説明

注1. 量子情報理論:

シャノンによって基礎が築かれた情報理論は、情報の流れをその背後にある物理モデルから切り離して0,1のような抽象的記号の確率的遷移として記述している。これによって、情報操作を記述する極めて汎用的な数理体系となっている。この理論体系を量子力学の法則まで取り入れて拡張したものが量子情報理論と呼ばれ、現在も日々発展しつつある理論である。

注2. 量子もつれ: 

2つ以上の量子力学的自由度にわたって形成された量子力学的相関。例えば、2つの自由度にわたる量子もつれでは、一方の自由度の量子状態を測定したとき、その結果がもう一方の量子状態についての情報を与える。このような相関効果は、隠れた変数理論を用いても説明できない量子力学特有の性質である。

注3. 通信路容量:

通信性能を定量化するためにシャノンによって導入された量で、情報理論の中心概念のひとつ。情報を0,1のような抽象的記号で表現して伝送する符号化操作の機能に基づいて定義される。具体的には、kビットの情報をそれより長いnビットの符号で表現して伝送するとき、誤りなく情報を伝えることができるk/n の比の上限値として定義される。