●科学的意義
本研究は、恐怖記憶を和らげるメカニズムについて、新たな知見を提供しました。DecNef訓練による恐怖記憶消去では、従来法による消去にかかわる前頭前野腹内側部が関与せず、その代わりに、報酬に関わる大脳基底核の領域(線条体)が関与することが分かりました。こうした知見は、恐怖記憶を緩和させる脳内メカニズムが複数存在することを示すものであり、従来よりも多様なアプローチで働きかけることが、恐怖記憶の消去において効果的である可能性を示唆します。
●臨床的意義
本人が自覚することなく、恐怖記憶を変容可能であるDecNef技術は、極度な恐怖経験が原因で発症するPTSDの治療法のひとつとして、将来的に応用できる可能性があります。最も効果的なPTSDの治療法とされる暴露療法では、恐怖記憶を和らげるために、恐怖記憶を思い起こさせるものを見せたり、あるいはイメージさせる必要があります。こうした方法は、恐怖記憶を思い起こすことが苦痛となる患者にとって、ストレスになり、治療から脱落する場合があります。従来の暴露療法や薬物療法などと合わせて、DecNef訓練を実施すれば、ストレスを軽減した治療に繋がる可能性が期待できます。
●今後の展望
前述のように、本技術には臨床的意義がありますが、現段階では、健常者を対象とした基礎研究の段階にあります。実生活において極度な恐怖記憶を形成された人を対象とするためには、いくつかの技術的な改善が必要となります。まず、本研究では、デコーダを作成するために、実際の図形を被験者に呈示して脳活動を計測しました。しかし、既に実生活において恐怖記憶を形成した人を対象とする場合、そうしたデコーダ作成の手順を苦痛に感じるかもしれません。そこで現在、私たちは、デコーダ作成の手順においてもストレスを軽減する、もしくは与えない手法の開発に取り組んでいます。また、本研究は、安全性を重視し、強くない恐怖記憶を実験的に形成しましたが、実生活で形成された強度な恐怖記憶を消去する際には、訓練方法をさらに精緻化・最適化していく必要があると考えられます。
●倫理面での懸念に対する対応
DecNefが基礎研究や臨床応用に広く浸透する過程で、倫理面に最大限の注意を払う必要があります。本研究では、DecNef訓練中、被験者はフィードバックである灰色の丸を大きくするよう教示されたのみで、脳活動パターンの変化の内容については無自覚でした。被験者が自分で行っている脳活動パターン誘導の内容に無自覚であることは、これまでのDecNef研究に共通して見られる特徴です。この特徴は、基礎研究として有用であり、PTSD等の治療にとって福音となり得る一方で、今後研究が進展するにともない、一歩間違えれば洗脳とみなされる可能性も考えられます。生命倫理の有識者とも協力し、慎重な検討を実施しております。また、医療応用としても新しい技術であるため、DecNef介入の副作用、あるいは症状が逆に悪化するなど有害事象の可能性を慎重に排除する必要があります。
このような懸念に対応するため、有害事象の有無を確認、倫理・安全委員による審議を実施し、常に安全性を確認しながら研究を継続しています。
今後、実験や臨床介入を通して得られた知見について随時検討・議論し、その過程において適切な時期に情報公開を実施しながら、新しい基盤技術であるDecNefが安全に社会に浸透するための道筋を整備します。