光通信の性能は、0と1の信号を識別する際のビット誤り率によって決まります。ビット誤り率は、伝送システムの雑音を除去することで小さくできますが、それでも原理的に消せない雑音(量子雑音)が存在します。このため、従来の光通信理論では、ビット誤り率はある一定の限界(ショット雑音限界)より小さくすることはできないとされています。一方、量子通信理論では、量子雑音を制御することができれば、ビット誤り率をさらに低減できることが知られていました。しかし、信号を受信する過程での量子雑音制御は技術的に難しく、ショット雑音限界を打ち破るような量子受信機は、これまで実証されていませんでした。
独立行政法人情報通信研究機構(以下「NICT」、理事長:宮原 秀夫)は、独立行政法人産業技術総合研究所(以下「AIST」)及び日本大学と共同で、光通信のための新しい原理の量子受信機を開発し、光通信理論のビット誤り率限界を打破する実証実験に世界で初めて成功しました。
将来、この量子受信機を実用化し、これまでの光通信の受信機と置き換えることで、光ファイバ中の送信電力を上げずに大容量の通信が可能になるほか、宇宙空間での超長距離通信にも有効となります。今回の実験の成功は、これらの実現に向けた最初の一歩です。
なお、本成果は、米国物理学会速報誌「Physical Review Letters」(米国時間6月24日付けオンライン及び誌面)に掲載されました。
今回、NICTは、光を波として制御する従来の光通信技術に、粒子(光子)としての性質までも制御する技術を加えることで、量子雑音の影響を減らす受信方式(量子受信機)を発案しました。この量子受信機に、AIST及び日本大学が開発した世界最高感度の光子数検出器(超伝導転移端センサ)を組み込み、光通信理論のビット誤り率限界(ショット雑音限界)を打破することに世界で初めて成功しました。
今回の成果は、従来の理論限界を超えるもので、超長距離・低電力・大容量の量子通信の実現に向けた大きな突破口となるものです。
この量子受信機を現在のコヒーレント光通信の受信機に置き換えて、既存の光ネットワークインフラに組み込めば、低電力で大容量の通信が実現できます。まず、10年後をめどに衛星-地上間の光通信の高性能化に利用できるよう開発を進めていきます。また、本技術は極めて高精度に光子を検出できるため、光エネルギーの計測標準技術などにも適用することが可能です。将来的には、長距離光ファイバ通信の中継増幅器の数の削減や、光ファイバ中の送信電力を上げずに、通信の大容量化を実現すること等が可能になります。
<今回開発した「量子受信機」の概要と実験結果>
今回の実験では、0と1のビット信号をそれぞれ波の山と谷が互いに反転した光の波(いわゆる2値位相変調信号)に乗せて伝送させ、それを量子受信機で検出する実験を行いました。(2値位相変調信号は、現在のコヒーレント光通信で使われる最も基本的な信号です。)
今回開発した量子受信機では、図1に示すように、0と1の波をそのまま測るかわりに、それぞれの波を参照光と干渉させ、いったん、別の波の状態に変換してから、最後に光子の数を測定します。光子が一つでも検出されれば1と判定し、それ以外は0と判定します。これによって、光通信で使われる信号を、量子雑音の効果を抑圧しながら高精度で識別することが可能になります。光子は気まぐれ(専門的にはハイゼンベルグの不確定性原理として記述されます。)で、信号パルスの中で勝手に現れたり消えたりします。光を波として扱ううちは光子の気まぐれを制御しきれませんが、光子という粒を正確に測ると最大限にその気まぐれを抑え込めるということもできます。
NICTが開発した量子受信機(図1)に対して、現在のコヒーレント光受信機では、図2に示すように、0と1の波の形を直接測定します。具体的には、局発光と呼ばれる参照光を信号光と干渉させることで、0と1の信号をそれぞれ正と負の出力電流として測定します。その際に、理想的なコヒーレント光受信機でも、量子雑音のためにどうしても低減できないビット誤り率限界、いわゆるショット雑音限界が生じます。
図3に、平均光子数が0.21個という極めて微弱な光信号の識別実験の結果を示します。
縦軸はビット誤り率、横軸は受信信号の波形変換に用いる振幅制御パラメータ(ビット信号“0”の平均光子数の変化量)です。このような微弱信号のビット誤り率は極めて高く、光通信理論の限界(ショット雑音限界)は0.18になります(赤線)。
今回開発した量子受信機のビット誤り率は、振幅制御パラメータが約0.6という値のときに最小(0.174)になり、ショット雑音限界よりさらに低い値が達成されることが明確に実証されました。
“0”信号はほとんどゼロ個(真空状態)と検出され(赤線)、
“1”信号は、複数の光子数の分布からなっています(青線)。
量子受信機のビット誤り率は、この2つの分布の重なりによって決まります。
今回開発した量子受信機では、NICTの持つ高いコヒーレント光制御技術と、AISTと日本大学が開発した優れた光子数検出器を組み合わせることにより、信号光-参照レーザの明瞭度98.6%、光子検出効率91%と極めて高い性能が実現されました。
その結果、図4に示すように明瞭な光子数の識別が可能となり、光通信理論のビット誤り率限界(ショット雑音限界)を打破することに初めて成功しました。
用語解説
受信過程において、光の量子雑音の効果を最小に抑える操作を施し、従来の光通信理論の限界を超える精度で信号を識別する受信機のことです。コヒーレント光通信の受信機と量子受信機の最大の違いは、受信過程において光の波動性のみならず粒子性(光子としての性質)も同時に制御する点にあります。量子受信機の具体的な実現に関する研究はまだ始まったばかりであり、設計理論の研究・実装技術ともに今後のブレークスルーによる大幅な性能向上が期待されています。
URL: http://prl.aps.org/
“Quantum receiver beyond the standard quantum limit of coherent optical communication,”
K. Tsujino, D. Fukuda, G. Fujii, S. Inoue, M. Fujiwara, M. Takeoka, and M. Sasaki, Physical Review Letters 106, 250503 (2011). June 24 online 公開
量子力学の不確定性原理に基づく量子揺らぎに由来する雑音。どんなに完全なレーザ光でも、量子雑音のため、その波の形(位相と振幅)を正確に決めることは原理的に不可能です。量子雑音の影響は、信号の減衰が大きく、また信号密度が高くなるほど顕著に現れ、信号の識別性を著しく劣化させる要因となります。
光の信号強度をどんどん弱くしていくと、あるところから雨だれのようにポツリポツリと途切れ始めて、光子の粒としての性質が出てきます。その到来は一般にランダムで、ポアソン分布という分布に従います。このランダムさ自身が、実は通信や情報処理で新たな雑音になり、このような雑音のことを一般にショット雑音と呼びます。これは、量子雑音と等価な現象です。理想的なコヒーレント光通信では、ショット雑音(あるいは量子雑音)がビット誤り率を与える最終的な要因になり、その限界のことをショット雑音限界と呼びます。
原子や電子、光子など、物質のミクロな振る舞いを説明する物理学「量子力学」に基づき、通信性能の物理的限界を明らかにする理論です。レーザの発明に伴い40年以上前から基礎科学の理論が作られていましたが、近年の光通信技術やナノ技術等の進展により、ようやくその理論を実証できる技術が整ってきました。また、1980~90年代にかけて、より広範な情報処理と量子力学の関係が理論的に明らかにされ、そこから「量子暗号」や「量子コンピュータ」などの新しい概念が次々と生まれ、これらを含めた「量子情報技術」は近年著しい進展を見せています。
量子力学によれば、光は波(電磁波)の性質と粒子の性質を併せ持っています。光の粒子は光子と呼ばれ、これ以上分割することのできない光のエネルギーの最小単位です。例えば光通信で通常用いられる1.5ミクロンの波長における1光子のエネルギーは、約1000京分の1(1京は1の後に0が16個ついた数の単位)ジュールという極めて小さな値になります。
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